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金栗四三(日本マラソンの父)17

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、1917(大正6)年に「東京奠都50年奉祝・東海道駅伝徒歩競争」に参加し、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 金栗四三さんは富士山を登山したときの空気の薄い状態がマラソンに似ていると考え、高地トレーニングを行いました。

 もっと普及させるにはと考え1913(大正2)年7月25日に行われた富士登山競走を1917(大正6)年に復活させ、第2回富士登山競走として開催しました。

 富士登山競走は現在の富士登山駅伝の前身大会で御殿場口五合目太郎坊から富士山頂までの速さを個人で競うでした。

 ちなみにこの大会には、実践女子大学学長【第2代・1958(昭和33)年10月1日~1961(昭和26)年3月31日、第4代・1966(昭和41)年4月1日~1971(昭和46)年3月31日】の山岸徳平さん(高等師範学校徒歩部出身)も走っています。

 また金栗四三さんは、東京の足袋屋「ハリマヤ」とマラソン足袋の改良を続けこはぜ(足袋の金具)を外して甲の部分を紐で結び、足袋の底にゴム底を縫い付けた「金栗足袋」を開発し、足袋屋「ハリマヤ」は1919(大正8)年4月に「金栗足袋」の発売しました。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 門下生の伴走として1919年7月22日に下関を出発し、8月10日に東京に到着。走行距離1200キロを20日間(1日平均60キロ)で走り抜いた。
 もちろんこのとき、金栗四三さんは金栗足袋を履いて走り、上々の手応えを得た。
 また金栗四三さんは、独逸学協会中学のマラソン・イベントとして日光~東京の130キロを走り抜くことを行い、独逸学協会中学の徒歩部は10区間に分けたリレー式の駅伝で130キロを走り金栗四三さんは、1人で130キロを走るというイベントでした。
 金栗四三さんは、1919年11月に日光~東京マラソン大会を開催し、130キロを20時間で走りきったのでした。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。