金栗四三(日本マラソンの父)5
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、いよいよオリンピック選手として活躍するまでのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
東京高等師範学校(現 筑波大学)の校長・嘉納治五郎さんは、アジア初のIOC委員に1909(明治42)年に選ばれており1910(明治43)年に第5回夏季オリンピック(スウェーデン ストックホルム)への参加を誘われました。
日本代表を選ぶため、文部省などに話を持ちかけたが、全て断られてしまった。
嘉納治五郎さんはオリンピックに参加するために動き出すしましたが、日本はオリンピックに参加したことがないので、対応する部署がないと文部省などに協力を要請しましたが、断られたため、東京都内の大学と協議して「大日本体育協会(JOC・日本オリンピック委員会)」を設立し、初代会長に就任し、日本代表選手を決めるため、1911(明治44)年11月に東京・羽田運動場(現 羽田空港)で、日本初となるオリンピック予選会を開きました。
金栗四三さんは、25マイル(約40km)など未知の領域だったが、トレーニングを重ねて、1911(明治44)に行われた予選に出場しました。
前にもお話ししましたがこの頃のマラソンは42.195キロで統一されておらず、大会によって距離はバラバラで、25マイル(やく40キロ)前後で開催されていた。このため、予選会の距離も25マイルでした。
そのため当時の日本にランニングシューズなどなく、普通の足袋で走りました。
足袋は25マイルという過酷なレースに耐えきれずに底が破れ、終盤で金栗四三さんは裸足になってしまったが、トップを走っていた北海道小樽水産の佐々木正清を抜いて見事に優勝した。
記録は、当時の世界記録を27分も上回る大記録2時間32分45秒で、金栗四三さんの記録は世界を驚かました。
ただし、この予選会は嘉納治五郎はお金と時間の問題から25マイルを実際に計測しておらず、地図とコンパスを使って25マイルを算出していたため、マラソンの距離が25マイルに足りていなかったのではないかという疑問の声が上がっています。
距離やタイムに疑惑は残るものの、優勝には間違いなく、予選で優勝した金栗四三さんは、日本初出場となる第5回夏季オリンピックの代表に選ばれました。
またこの時、東京帝国大学の三島弥彦さんは、審判に要請されていましたが、審判を断って見学に来ており、当日、競技に飛び入り参加して優勝(100メートル、400メートル、800メートル)しました。
今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますのでこのブログを今後もご覧いただけると嬉しいです。Gnaでした。