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金栗四三(日本マラソンの父)20

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、2度目のオリンピックに参加し海外を視察し、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 前回お話ししたとおり金栗四三さんのグループはドイツを視察しました。ドイツは第一次世界大戦で負け、ドイツ国民は食うや食わずの苦しい状況に置かれていたのですが、街中の広間や公園で大勢の人がスポーツで汗を流していました。

 そのなかでもスポーツをしている女性の姿が目立ったので、金栗四三さんは驚き、「民族の健康と体力の根源は将来、母親となる女性たちのスポーツから」と考え、女性の運動が根付いているドイツは必ず立ち直ると確信するとともに、帰国後は女性への体育教育に力を入れるべきだと考えました。

 当時、金栗四三さんは独逸学協会中学を休職して第7回夏季オリンピックに参加していました。

 女子スポーツ教育案を考える金栗四三さんに、嘉納治五郎さんは「東京女子師範はどうか」と紹介してきました。

 帰国後は独逸学協会中学に復帰せず、嘉納治五郎さんの言う通り、翌年の1920(大正9)年に東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)に就職しました。

 新しい赴任先の東京女子師範学校に向かった金栗四三さんを迎えたのは、おてんば娘たちで、彼女らが親しんでいたスポーツは、自転車でした。

 スカートや袴のまま乗り回せる自転車は、女性にとっても颯爽とした開放感の象徴で西洋の婦人だけではなく、日本の女学生たちにとってもそうでした。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 しかし、当時の世間は「女子がスポーツをするのは、はしたない、不要だ」という風潮でした、この時代の女性は大和撫子が理想とされたので、スポーツなどもってのほかでしたが金栗四三さんは女子の健康のために、スポーツが必要だと信じていました。

 そこで金栗四三さんが考えた女子にふさわしいスポーツとは、ドイツで見たテニスでした。

 しかし女性に競わせることに対して批判が多くある中、金栗四三さんは宮家や家族を担ぎ出し、文部省や新聞報道を上手く利用して、1921(大正10)年9月30日に日本初となる女子テニス大会を開催して成功させました。
 さらに、金栗四三さんは1921年11月に「第1回女子連合競技大会」を開催しました。これが、1923(大正12)年4月に発足する「関東女子体育連盟」に繋がりここに日本女子スポーツの種が蒔かれたのでした。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。


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