金栗四三(日本マラソンの父)14
こんばんはGnaです。
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、1916(大正5)年に開かれる第6回夏季オリンピック(ドイツ・ベルリン)に出場するため次へ向かって進むお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
1914(大正3)年にオーストリアの皇太子がサラエボ巡業中に暗殺されるという事件がおき世界が第1次世界大戦(1914年7月28日から1914年11月11日)へと発展していきました。
第1次世界大戦は長引き、1916(大正5)年になっても終結しなかったため、IOC(国際オリンピック委員会)は予定されていた第6回夏季オリンピック(ドイツ・ベルリン)の中止を決定したのでした。
金栗四三さんは、オリンピック出場という機会を戦争に奪われてしまったのでした。
次は、1920(大正9)年第7回夏季オリンピック(ベルギー・アントワープ)大会ですが、また4年間走るだけというのも、流石にどうかと金栗四三さんは悩みました。
そして嘉納治五郎さんに相談しました。
すると嘉納治五郎さんは、教師として指導する傍ら競技生活を続けたらどうかと言ったそうです。
そこで金栗四三さんは以前赴任を取り消した愛知一中に奉職しようと相談するのですが、「日本の金栗を愛知一中で独占はできない」と断られてしまったのです。
その結果、金栗四三さんは1916(大正5)年に高等師範学校の研究科を卒業すると、神奈川県鎌倉市にある神奈川師範学校に地理の教師として赴任しました。
そこでマラソンの練習をしながら、マラソン選手の育成やマラソンの普及にあたったのです。
今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。
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