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金栗四三(日本マラソンの父)27

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、聖火リレーのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 2020年東京でオリンピックが開催されます。

 日本での開催は、第18回夏季オリンピック(1964年)に次いで2回目のオリンピックになります。

 実は、この第18回夏季オリンピックの前に幻の第12回夏季オリンピックがあったのです。

 今回は、そのお話をしたいと思います。

 1940(昭和15)年が紀元2600年(神武天皇即位紀元皇位))に当たることから、紀元2600年を記念して「日本万国博覧会(東京・晴海など)」や「東京オリンピック駒沢オリンピック公園など)」を開催する計画がありました。

 ちなみに勝鬨橋は博覧会開催のための整備の一環で造られました。 

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

  日本は、1931(昭和6)年に東京オリンピックの誘致を決定し、1936(昭和11)年7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して嘉納治五郎さんが「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」と演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で、アジア初となる東京開催が決定しました。

 すると、嘉納治五郎さんは、東京オリンピックの準備のため、熊本でマラソンの普及活動をしている金栗四三さんに上京するように話をしました。
 金栗四三さんは、養母・池部幾江の絶大なる応援を受け、妻子を伴って上京し、十文字高等女学校で教師として勤務しながら、東京オリンピックの準備や選手の育成に奔走したのでした。
 しかし、翌年の1937(昭和12)年7月7日に起きた盧溝橋事件を発端に、日中戦争へと発展したため、日本政府内は東京オリンピック開催派と反対派にわかれてしまったのです。
 IOC総会(エジプト・カイロ)に出席したIOC委員・嘉納治五郎さんは、IOC総会で批判されながらも、東京オリンピック開催を確認することに成功したが、IOC総会からの帰国途中の1938(昭和13)年5月4日(横浜に到着する2日前)に急性肺炎で急死してしまいました(遺体は氷詰にして持ち帰られました)。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。


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