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金栗四三(日本マラソンの父)16

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。

 前回のお話では、1916(大正5)年に指導者となりマラソンの普及に励みました、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 翌年1917(大正6)年は、東京奠都(てんと)から50年目にあたり、東京・不忍池で「東京奠都50年奉祝博覧会」が開催されました。

 「奠都」とは明治時代(1867~1912年)を迎え天皇が京都から東京へと移ったとき、「遷都」ではなく「奠都」という言葉を使いました。都を定めると言う意味となっています。
 このとき、読売新聞社は、「東京奠都50年奉祝博覧会」の協賛イベントとして、スタートは京都・三条大橋でゴール地点は東京・上野不忍池まで東海道五十三次を走るリレー形式のマラソン(駅伝)の開催を思いつき、金栗四三さんらに相談を持ちかけました。

 このイベントの相談を受けた金栗四三さんは、嘉納治五郎さんを大会長に担ぎ上げて大会開催に奔走し、「東京奠都50年奉祝・東海道駅伝徒歩競争」(「東海道駅伝」ともいわれます)、1917(大正6)年の4月27日(スタートは午後2時)から29日(ゴールは午前11時34分)の3日間にわたって読売新聞社の主催で開催しました。

 ちなみに「駅伝」と命名したのは、神宮皇学館(三重県伊勢市 第二次に廃校となったが1962(昭和37)年私立皇学館大学として復活)の館長・武田千代三郎さん(大日本体育協会副会長)である。
 京都から東京までの道のりは516キロメートル、23区間を3日間かけて昼夜を問わず走り抜くという過酷なものでした。
 京都から東京までの道のりは507km。区間を23に分け、関東チームと関西チームとが競いあったこの大会は、日本の駅伝の元祖とも言われています。

 当初チームは、関東(東京)・中部(名古屋、京都)・関西(大阪)の3チームの出場を予定しいましたが、この時代は長距離選手を揃えるのが難しく、関西はチームが成立せずに不参加。関東と中部の一騎打ちとなりました。
 関東チームは関東から精鋭(第一高等学校【現 東京大学教養学部及び千葉大学医学部・薬学部】、東京高等師範【現 筑波大学】、早稲田大学の学生)を集結し、金栗四三さんがアンカーを務めました。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 対する中部チームは、愛知一中【現 愛知県立旭丘高等学校】を中心に編成し、「マラソン校長」の異名を取る元校長・日比野 寛さん(当時、衆議院議員52歳)がアンカーを務めました。
 この日本最初の駅伝は大会が始まって日を追うにつれて、世の大きな反響を呼んだ。八ツ山(東京・品川区)からトップで入ったの最終走者の金栗四三さんは、大きな歓声で迎えられ、日本橋あたりでは、銀座・三越や旧・白木屋(現在のコレド日本橋)の窓から身を乗り出した人たちが帽子やハンカチを振って喝采しました。

 上野の静養軒から池之端界隈は見物客でごった返していたといわれています。上の広小路を駈けてきた金栗四三さんは、そんな大観衆を縫うようにして走り、不忍池を一周して博覧会場内のゴールしました。
 駅伝の最終日は博覧会の入場者数も平日の5割増しとなり、主催者側の狙いどおりに大当たりをとったが、「駅伝」創始者土岐善麿さん(読売新聞社記者)は、読売新聞社を翌年退職し朝日新聞社記者となっています。

 結果は、精鋭を集めた関東チームが中部チームに大差を付け、41時間44分(中部チームは、1時間24分後にゴール)という記録で勝利しました。
 こうして開催された世界初・日本初の駅伝「東京奠都50年奉祝・東海道駅伝徒歩競争」が、金栗四三さんにとっても重要な大会でした。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。