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金栗四三(日本マラソンの父)32

こんばんはGnaです。

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、金栗さんが選手育成を始めたお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 1950(昭和25)年8月には金栗四三さんを監督とする『オリンピック・マラソンに優勝する会』が発足した合宿の効果は直ぐに現れ、1950(昭和25)年12月に広島で開催された「金栗賞朝日マラソン(現 福岡国際マラソン)」では『オリンピック・マラソンに優勝する会』の選手は好成績で走りました。

 そのなか金栗四三さんは、秋田出身の山田敬蔵さんも育てていました。 

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

  そして、1951(昭和26)年4月に開催された第55回ボストン・マラソンに日本は初参加し、【金栗足袋】を履いた田中茂樹さんが2時間27分45秒の記録で優勝したのです。

 田中茂樹さんは、広島出身だったことから、「原爆少年」の異名で世界を驚かせたました。

 田中茂樹さんは、前年の「金栗賞朝日マラソン(現 福岡国際マラソン)」では高校生でしたが2時間39分20秒で10位になっていました。

 第55回ボストン・マラソンではその他の選手も上位に入賞し、日本陸上は華々しく国際舞台に復帰しました。

 このため、日本のマラソンは、国民の期待を背負って1952(昭和27)年の第15回夏季オリンピックフィンランドヘルシンキ)に出場しましたが、原爆少年の西田勝雄さん(中央大)が25位、山田敬蔵さん(同和鉱業 現・DOWAホールディングス)が26位、内川義高さん(三井鉱山 現・日本コークス)が棄権と惨敗に終わってしまいました。

 田中茂樹さんは、高校卒業後日本大学に進学しましたが膝に軟骨が出る故障を起こし、回復が遅れ練習不足のまま1952年、代表選考レースとなった毎日マラソン(現・びわこ毎日マラソン)に出場しましたが惨敗。オリンピック出場は成らず。故障の悪化で大学時代に競技生活を終え現役をしりぞきました。

 その後は西武百貨店などに勤務し、日本陸上競技連盟理事、全国マラソン連盟会長などを務め、1999(平成11)年には地域ランナーを育てる陸上クラブ「東京ハリアーズ」を旗揚げしました。

 そしてボストンマラソンの大会本部が出している公式歴代優勝者名簿の欄には「Hioroshima Japan」と田中茂樹さん一人だけが国名以外に出身地まで記載されています。

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 今日のお話はここまでにしたいと思います。続きはまたお話ししますのでこれからも読んでいただけるとうれしいです。Gnaでした。