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陸上競技の楽しい話を紹介したいです

金栗四三(日本マラソンの父)31

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、戦後の金栗さんの続きのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 再びオリンピックへの参加のため金栗四三さんは、東奔西走し動いていました。

 IOC(国際オリンピック委員会)には「スポーツと政治は別」という基本理念があり、日本がオリンピックに参加することに問題は無かったのです。
 しかし、1948(昭和23)年第14回夏季オリンピック【イギリス・ロンドン】開催国のイギリスが日本とドイツの参加を拒否したため、日本は戦後初となるオリンピックには参加できませんでした。
 このため、日本陸上界の照準は、次の第15回夏季オリンピック【1952(昭和27)フィンランドヘルシンキ】にむかっていました。 

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

  この時、日本はIAAF(国際陸上競技連盟)から除名処分を受けていましたが、着実に復興して国内大会を充実させ、1950(昭和25)年ごろから、各種目ごとに続々と世界の舞台へと参加し始めました。
 このようななか、1950(昭和25)年2月19日に佐賀県で開催した「西部マラソン20キロ」で手応えを掴んだ金栗四三さんは、第15回夏季オリンピックに向けて、有力選手を集めて合宿の開催を計画しました。

 ※このときの結果は、1位田茂井 宗一さん(大阪・鐘紡淀川):1時間6分39・2位高橋 進さん(広島・日産):1時間8分10・3位広島 庫夫さん(宮崎・旭化成):1時間18分14でした。
 また1950(昭和25)年3月、金栗四三さんは、ボストン・マラソンに参加するため、ボストンの体育協会へ手紙を書くと、「スポーツの世界に国境は無し。貴国選手の来征を歓迎する」との返事を得たのです。
 この返事を得た金栗四三さんは、1950年3月から西田勝雄さん(中央大学)・田中茂樹さん(広島・比婆西高)ら有力選手うを集め、強化合宿を開始。1950年8月には金栗四三さんを監督とする「オリンピック・マラソンに優勝する会」が発足させました。

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 今日のお話はここまでにしたいと思います。続きはまたお話ししますのでこれからも読んでいただけるとうれしいです。Gnaでした。