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陸上競技の楽しい話を紹介したいです

金栗四三(日本マラソンの父)19

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、「アメリカ大陸横断駅伝」や「箱根駅伝」と様々な大会を企画・運営しました、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 第1回箱根駅伝と同年の1920(大正6)年4月第7回夏季オリンピック(ベルギー・アントワープ)が開催されました。
 金栗四三さんは当時30歳になっていましたが自身8年目となるマラソン代表として予選を勝ち抜いて2度目の日本代表として参加しました。
 日本選手団は、前回1912(明治45)年第5回夏季オリンピックスウェーデンストックホルム)よりも多くの選手が参加しました。

 前回の日本初出場の第5回ストックホルム・オリンピックの日本代表は、金栗四三さんと三島弥彦さんの2人だけでしたが、2度目の出場となる第7回アントワープ・オリンピックの日本代表は16人、陸上競技日本代表は全部で12人《加賀一郎さん(明治大)【100m・200m】、山岡慎一さん(東京大)【100m・200m】、
蓮見三郎さん(日本歯科大)【800m・1500m】、大浦留市さん(東京高師)【
5000m・10000m】、佐野幸之助さん(松江青年)【5000m・10000m】、
斎藤兼吉さん(東京高師)【五種競技】、益田弘さん(慶應大)【五種競技】、
野口源三郎さん(体協幹事)【十種競技】、金栗四三さん(体協委員)【マラソン】、茂木善作さん(東京高師)【マラソン】、八島健三さん(小樽中)【マラソン】、三浦弥平さん(早稲田大)【マラソン】》でした。

彼らは海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープをめざします。
途中でアメリカにもゆっくり滞在し、スポーツ先進国を視察する目的も果たしました。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 今回の選手団は、前回と比べて、格段に快適に過ごすことができました。
 今回は前回参加の金栗四三さんの経験から、色々と準備や対策が出来ており、前回よりも良い条件でオリンピックに出場することができ、テニスシングルで熊谷一弥が銀メダル、テニスダブルスで熊谷一弥・柏尾誠一郎が銀メダルを取得しました。

 日本初のメダルとなったのです。

 そして8月22日、マラソンの当日(大会自体はなんと4月20~9月12日までという長さでした)。
 前回のストックホルム大会とはうってかわって、アントワープ大会は鳥肌が立つような寒さだったそうです。
 金栗四三さんは膝に痛みを抱えつつ、マラソンに挑みました。30キロ地点を通過するころには、5位にまで浮上。その後4位の走者を抜こうというときになって、左足首に痛みがでてきました。
冷たい雨の中、痛みに麻痺したような脚を引きずって歩いてゴールしたとき、金栗四三さんは記録は2時間48分4545秒で16位でした。
 この時の敗因は寝不足だったとのちに言われています。

 若い選手が騒いでいたことが寝不足の原因とか、近くにあった協会の鐘の音が寝不足の原因と言われています。
 この大会では、男子テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎がメダルを獲得したのみで、それ以外の日本選手は残念ながら入賞を逃しました。
 しかし金栗四三さんが何も得られなかったわけではありません。

 その後、日本代表はいくつかのグループに別れ、ヨーロッパを視察して帰国するのです。
 金栗四三さんがドイツを視察してスポーツに取り組む女性の姿をとき「女子にもスポーツ教育が必要だ」と確信し帰国後は女子の体育に力を入れることになるです。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。