金栗四三(日本マラソンの父)15
こんばんはGnaです。
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、1916(大正5)年に開かれる第6回夏季オリンピック(ドイツ・ベルリン)が戦争で中止になって1920(大正9)年に開催される第7回夏季オリンピック(ベルギー・アントワープ)向かって進むお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
神奈川師範学校へ赴任した金栗四三さんは物分りよく優しい教師であり生徒からも人気となりました。
ちなみに金栗四三さんは1916(大正5)年5月に徴兵検査を受ましたが、健康体ながら、結果は甲種に届かない第一乙種となり、兵役を逃れたそうです(この時代の兵役は甲種からでした)。
金栗四三さん身体能力が不適格なのではなく、その長兄・金栗実次が「弟のご奉仕はマラソンを通して国威を発揚することにある。同じご奉仕なら一兵卒となるよりうも、オリンピックで勝つことの方が大事だ」と考え、村長を通じて軍部に根回ししていたため、軍の判断で「スグに入営(軍に入ること)がないように」書き換えが行われていたようです。
金栗四三さんは、神奈川師範学校を1年で異動となり、1917(大正6)年の春から次の赴任先の東京の独逸学協会中学でした。
日本のスポーツ界を担う人物が鎌倉にいては不便と考えた、嘉納治五郎さんによる措置でした。
独逸学協会中学は名門校でしたが、第一次世界大戦の敗北で、ドイツの評判は下落気味となっており、独逸協会中学も2流校に成り下がっていました。
金栗四三さんは、あえて2流校を選んで赴任し、独逸学協会中学でも、マラソンの普及に励みました。
しかし金栗四三さんが顧問をつとめた徒歩部を指導するようになると、活気が戻って来て躍進著しいものがあったのです。
その後5年間にわたる独逸協会中学での日々は、指導者としての金栗四三さんにも充実したものだったそうです。
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今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。