金栗四三(日本マラソンの父)22
こんばんはGnaです。
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、長年の夢だったアメリカ横断駅伝を断念しました、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
1923(大正12)年、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)の校長の理解と尽力により、東京女子師範学校を中心に関東女子体育連盟が結成されました。
1924(大正13)年5月、第8回夏季オリンピック(1924年 フランス・パリ)の予選が開催されました。
金栗四三さんは、当時34歳マラソン選手としてのピークを越えており、第一線から退いて第8回夏季オリンピックは次の世代に譲ろうと考えていましたが「伴走のつもりで走ってほしい」という周囲の声に押されて、仕方なく、予選に出場しました。
ところが、次の世代の選手がが次々と脱落し、金栗四三さんは予選で優勝してしまいました。金栗四三さんは不本意ながら3度目の日本代表に選ばれてしまいました。
しかし、金栗四三さんは、日本代表に選ばれたからには勝利するため、激しいトレーニングを行い、第8回夏季オリンピックに出場しました。
ところ、金栗四三さんは、32.3キロ付近で意識を失って倒れて落第しまい、第5回夏季オリンピック(スウェーデン・ストックホルム)の再現となってしまったのです。
金栗四三さんは16年間、日本のマラソン界の頂点に立ち続け、3度のオリンピックに出場したが、1度も活躍できず、4年に1度のオリンピックに体調を万全にすることの難しさを痛感したのでした。
こうして、金栗四三さんは、第8回夏季オリンピックを最後に、第一線を退き、以降は東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)で教師をしながら、マラソンの普及と選手の育成に力を入れたのでした。
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今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。