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金栗四三(日本マラソンの父)8

こんばんはGnaです。

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。

 前回のお話では、17日間の長旅の果ていよいよストックホルムに到着までのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 スウェーデンの首都・ストックホルム、当時の日本人にはほとんど来ることができない北欧の国に着いた金栗四三さんたちの前には、すごく美しい水の都の景色が広がっていそうです。

 ストックホルムの日本公使館が「言葉の通じない外国人と一緒では気疲れが酷いだろう」と気を使って金栗四三さんら4人は、町中の電車通りに面した3階建ての安い宿屋に宿泊しました。

 3階建てなのにエレベータが付いていので驚いたそうですが、部屋は小さく、食事の面でも、白夜という面でも、良い環境とは言えないぐらい貧弱な建物だったそうです。

 しかし、金栗四三さんと三島弥彦さんは、その後3日間の休養で旅の疲れを取り、1912年6月6日には練習を始め、その5日には嘉納治五郎さんもストックホルムに到着しました。

 1912年6月11日には、三島弥彦さんは100メートル・200メートル・400メートルの出場に登録し、金栗四三さんは1000メートル(後に棄権)とマラソンの出場をオリンピック委員会に登録しました。

 到着後は他国の選手はの少なかったのですが、大会が近づくにつれ他国の選手がが増えてくると、日本人との体格の違いに圧倒され緊張と疲労が蓄積していき三島弥彦さんはノイローゼ気味になったそうですが、金栗四三さんはなんとか三島弥彦さんを励まして練習を続けました。

 

 

 このとき、肺結核となっていた監督・大森兵蔵さんは病状が悪化しており、練習には参加しておらず助言ももらえず、金栗四三さんは自分ひとりでの練習を余儀なくされ、タイムすら計測できずに苦しんだそうです。

 他国の選手はは、指導者が自転車で併走してアドバイスを送っていたが、金栗四三さんはひとりで練習せねばならず、とても不安だったようで、「誰が助言してくれる人が欲しいと思った」と後日を話していました。

 また、当時の日本代表にはスタッフがひとりも居なかったため、金栗四三さんは、病床の監督・大森兵蔵さんの看病や世話もしなければならなそうです。

 

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金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 

 私もひとりでトレーニングをしていると寂しいものです。

 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますのでこのブログを今後もご覧いただけると嬉しいです。Gnaでした。

 

 


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