金栗四三(日本マラソンの父)13
こんばんはGnaです。
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、ストックホルムオリンピックがおわり次へ向かって進むお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
金栗四三さんは、1912(明治45)年9月18日に神戸港に帰国しました。
帰国途中の1945(明治45)年7月30日に明治天皇が崩御したことから、日本初のオリンピック出場という話題はあまり話題にはなりませんでした。
またストックホルム・オリンピックの失敗で得た教訓を訓練に取り入れ、4年後の第6回夏季オリンピック(ドイツ・ベルリン)に向けて練習を開始しました。
「目指せ、4年後のベルリン五輪を!」金栗四三さんは、ストックホルムでの屈辱を胸に、さらなる猛練習に励んだそうです。
新たに外国の舗装道路を走ることや、炎暑を想定したトレーニングメニューも取り入れました。
足袋の改良、ドイツ語の学習、ベッドでの睡眠や洋食に慣れる訓練も、平行して取り組んだそうです。
そして1914(大正3)年東京高等師範学校卒業の年となりました。そして金栗四三さんは、愛知県名古屋市の愛知一中への赴任を命じられたのです。
愛知一中の校長・日比野寛さんは、「病める者は医者へ行け、弱き者は歩け、健康な者は走れ、強壮な者は競走せよ」という方針を打ち出し、マラソンを全面的に教育に取り込んで「マラソン校長」の異名をもっていました。
そしてマラソンの指導者が居なかったので、文部省に直訴して金栗四三さんを獲得したのです。
しかし、金栗四三さんは、2年後の1916(大正5)年に開かれる第6回夏季オリンピックに出場するため、高等師範学校の研究科への進学を希望していたのです。
そこで、金栗四三さんは愛知一中の校長・日比野寛さんに事情を話して赴任の取り消しを直訴すると、校長・日比野寛さんは理解してくれ「研究科」に籍を置くことになりました。そして徒歩部に毎朝行きどんな天候の日も休みなく練習を行ったそうです。常に全身真っ黒に日焼けしていました。
そして一緒に練習をする後進ランナーの育成や、スポーツ啓発にも取り組みました。
今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。