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金栗四三(日本マラソンの父)6

こんばんはGnaです。

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。

 前回のお話では、いよいよオリンピック選手として出場するまでのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 1912(明治45)年予選で勝利した金栗四三さんと、三島弥彦さんの2人は、第5回夏季オリンピックスウェーデンストックホルム)に出場する日本代表に選ばれました。

 嘉納治五郎さんに「長距離では金栗君、短距離は三島弥彦君で、五輪に出場してもらうことに決まった」と世界記録樹立を果たした金栗四三さんが出場するのは、ごく当然のことです。
 しかし日本初のオリンピック出場には多くの問題があり、すんなりと喜べるような話しではなく、金栗四三さんは一度、日本代表の申し出を断っています。

 当時は、学生の本分は勉強であり、スポーツは遊びの延長という考え方が一般的でした。オリンピックに出場するためには、5か月間も学校を休学せねばならず、スポーツのために学業を5か月も休むのは、学生にとって大きな問題でした。 

 また、当時の文部省が「運動競技などの遊びに、官立学校の学生が外国に行くなど、断じて許しがたい」とオリンピックへの出場に反対していたため、補助金がです、費用1800円(現在の価値で600万円)が全額個人負担になったていたのです。

 

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

  しかし、日本の体育が西洋文化から大幅に遅れていると感じていた嘉納治五郎さんは、日本代表を固辞する金栗四三さんを「捨て石となり、礎となることは苦しいことだ。破れた場合の気持ちも分かる。だが、誰かがその任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国に肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを逃したら、次ぎの機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本スポーツ界のために、黎明の鐘になってくれ」と説得に当たりました。

 このように説得されて、金栗四三さんは「黎明の鐘」という言葉に感激し心が動き、「卒業後、教職に就いてから月賦返済する」という覚悟で、借金をしてオリンピックへの出場する事を決意するのです。やるだけやってみようか。自分だけじゃなく国やみんなのためにもなるかもしれないと思ったのです。

 そして悩みのお金については、長兄・金栗実次に手紙で費用を工面して欲しいと頼むと、長兄・金栗実次さんや家族は日本代表になったことを喜び、「金のことは心配するな。田畑を売ってでも用意する」と弟の申し出を快諾しました。

 さらには息子が長距離走に挑むことを反対していた母に加え、熊本出身の先輩で東京高等師範学校(現 筑波大学)の寄宿舎の舎監をしていた福田源蔵さんが、金栗四三さんの窮地を知り、後援会を立ち上げ、入賞を祈願して11円11銭を寄付すると、続々と寄付が集まり、寄付金は1500円なり援助してくれたのです。

 金栗四三さんは郷里(熊本・玉名)の誇りとなっていました。これからは日本の近代スポーツを担う人材となって欲しいと考えた人々は、彼のために遠征費用を捻出してくれたのです。このため、長兄・金栗実次さんには300円を負担してもらうだけで済みました。

 

 かくして金栗四三さんは、日本中の期待を背負いながら、ストックホルムに向けて出発したのです。

 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますのでこのブログを今後もご覧いただけると嬉しいです。Gnaでした