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陸上競技の楽しい話を紹介したいです

金栗四三(日本マラソンの父)18

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、「富士登山駅伝」や「金栗足袋」と陸上競技の普及に東奔西走しました、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 1919(大正8)年10月、金栗四三さん・沢田英一さん・野口源三郎さんの3人は、埼玉県鴻巣市にある小学校の運動会に審判として招かれました。
 沢田英一さんは、明治大学の学生で、1919(大正8)年22日間で、札幌~東京間を走破した強者でです。
 野口源三郎さんは、東京高等師範学校の体育課教授で、1920(大正9)年のアントワープ・オリンピックの棒高跳びに出場して11位になるという強者である。
 この3人が、運動会からの帰りの汽車で、日本の長距離ランナーを育成するためのイベントが開催出来ないかを話し合います。

 そこで海外で長距離をやりたいという意見が出て、「アメリカ大陸横断駅伝」という構想が生まれました。
 アメリカ大陸西部のサンフランシスコから、アメリカ大陸東部のニューヨークまで、アメリカ大陸を東西に横断するという度肝を抜く駅伝計画でした。
 駅伝にという形式にしたのは、金栗四三さんが一度に多くのマラソン選手を育てるには駅伝で競わせるのが一番だと考えていたからである。
 さて、金栗四三さんらは、アメリカ大陸横断駅伝の予選を開催するため、各学校に予選への参加を呼びかける一方で、陸上競技に理解のある報知新聞の寺田稔彦さんに協力を要請し、報知新聞の賛同を得のです。
 長距離選手10人を揃えるのは難しい事もあり、参加校は早稲田大学慶應大学明治大学東京高等師範学校・の4校でした。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 第1回・箱根駅伝は、参加校が4校だったので、「四大校駅伝競走」という名前で開催されました。
 こうして、参加校4校の委員会も参加して具体的な計画が話し合われ、コースの候補に「日光~東京」「水戸~東京」「箱根~東京」が候補に挙がった。
 しかし、第1回・箱根駅伝は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選であり、アメリカ大陸の横断で待ち構える悪路を想定しなければならず、「日光~東京」は道が平坦で却下となり、「水戸~東京」も交通が不便なので却下となった。
 場所が箱根になった理由は、アメリカ大陸を横断する際に最も大きな山場となるロッキー山脈を攻略する事を想定し、そのため「天下の嶮」とうたわれた箱根が、大会の会場に選ばれたと言われています。

 また、金栗四三さんの「鍛錬には極寒か猛暑がよい」という信念から、予選は2月に開催されることになった。
 第1回大会は、金栗四三さんの「監視の審判付きでなければ、競争をやれないようでは、いかにも残念だ。選手たちを信用しよう」と言い、監視は置かず、審判は金栗四三さんだけでした。
 ところが、小田原~箱根間を担当する選手らが近道の研究をしているという情報が入ってきたのです。
 往路の第5区・箱根は夜間になる事が想定されていたので、箱根の青年団が審判と道案内を兼ねて、松明を持って選手に伴走してくれることになりました。

 こうして、1920年2月14日、土曜日であったため、午前中の講義を受けた後、有楽町の報知新聞社前を13時00分にスタート。1区は東京高等師範学校が首位。2区で明治大学東京高等師範学校を抜き首位に立つと、順位を維持。5区沢田英一が往路優勝のゴールテープを切りました。

 2位は東京高等師範学校、3位は早稲田大学。4位慶応義塾大学の到着は20時53分であった。このため、後半は松明をともしながら走り、ゴールした時には花火で合図を送ったという逸話がある。

 復路は2月15日7時00分にスタート。慶応義塾大学のスタートは往路優勝した明治大学のスタートから30分後であった。復路も明治大学が独走。9区終了時で11分以上の差をつけていたが、最終10区で東京高等師範学校が逆転。15時間5分16秒のタイムで総合優勝を果たしました。

 2位明治大学、3位早稲田大学、4位慶応義塾大学、箱根の青年団の協力もあって、第1回・箱根駅伝(四大校駅伝競走)は無事に終わりました。
 なお、第1回・箱根駅伝は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選として開催されたが、「アメリカ大陸横断駅伝」については報知新聞から無謀だと諭され、「アメリカ大陸横断駅伝」は開催されず、予選の箱根駅伝だけが残り、現在まで続いているのです。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。