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金栗四三(日本マラソンの父)3

こんばんはGnaです。

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。

 前回のお話では、大学入学までのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 1910(明治43)年4月、金栗四三さん(20歳)は、上京して東京高等師範学校(現 筑波大学)の地理歴史科に入学しました。 

 東京高等師範学校では、毎年春と秋、長距離走大会が行われていました。
 行われていた長距離種目は、それぞれ12キロ(3里)マラソン、24キロ(6里)マラソンでした。

 金栗四三さんが小学校に入学した頃の1899(明治32)年に日本初の長距離競走が行われ、東京高等師範学校入学前年の1909(明治42)年に大阪毎日新聞(現 毎日新聞大阪本社)の主宰で行われた神戸~大阪間の長距離競走で、日本で初めて「マラソン」という言葉が使われました。マラソンについては、また今度お話ししますね。

 

 さて、東京高等師範学校へ入学したばかりの金栗四三さんは春の12キロマラソン大会では、トイレへ行きたくなったのが原因のようで、スタートに遅れたことも有り、25位という成績になってしまいました。

 12キロのマラソン大会は金栗四三さんにとって初めての経験で、非常に苦しかったとのちに語っています。

 しかし、秋のマラソン大会では一気に巻き返し3位に入賞しました。この時の1位と2位は上級生で、1年生(予科)で入賞したのは、金栗四三さんが初めてでした。

 3位入賞を果たした金栗四三さんは、校長から表彰されます。
 当時の東京高等師範学校校長こそ、柔道界のレジェンド、日本の近代スポーツ界を牽引した、嘉納治五郎さんでした。

 嘉納治五郎さんが「予科の1年生としては抜群の健闘」と激賞するほど、東京高等師範学校は様々なスポーツに力を入れている学校であり、入学1年目では快挙とも言えるものでした。

 嘉納治五郎さんは、「教育には知育・徳育・体育の3つが必要」とうい教育理念の持ち主でスポーツ全般を推奨し、そのため東京高等師範学校で年に2回のマラソン大会を開催していたのです。

 そしてこの出会いは、金栗四三さんの運命を変えることになりました。

  金栗四三さんは、嘉納治五郎さんに褒められたことに感激し、マラソンという道を選ぶことになるのでした。

 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますのでこのブログを今後もご覧いただけると嬉しいです。

 

 

 


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