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陸上競技の楽しい話を紹介したいです

金栗四三(日本マラソンの父)11

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、いよいよマラソンのスタートののお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 1912(明治45)年7月14日13時30分、マラソンがスタートすると、地鳴りのような歓声を背に、海外の選手は短距離走を思わせるスピードで走り出しました。

 当時、日本のマラソンはゆっくりと走り、最後に全力で抜くという戦法が一般的だったので、金栗四三さんは海外の選手ののスピードに慌て、ペースを乱されてのスタートとなってしまいました。

 スタートの合図すら聞こえない中、一生懸命無我夢中で他の選手について走り出したのです。
 熊本の家族や応援してくれる日本の仲間を思い出し、一生懸命に走る金栗四三さん。暑い日でした。さんさんと真夏の日射しがそそぎます。

15キロほど走ると、沿道から日本語がしました。

「がんばれっ! 金栗!」

スウェーデンに滞在中の日本人の応援でした。
金栗四三さんは力が出たそうです。

 その後脱落してきた海外勢を抜いて17位まで順位を上げましたが、この日は35度を超える猛暑に見舞われており、金栗四三さんは折り返し地点を過ぎた頃から疲労に襲われて失速し、26~27地点で体に異変が起きます。

 力が抜けて、目がくらみ、経験したことのないような苦痛に襲われたそうです。

 コースを外れて森の中へと消え、意識を失って動けなくなりました熱中症でした。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 意識がもうろうとした金栗四三さんは、エルジエン・ペトレさんという農家の庭に迷い込みそこにあった椅子に座り込んで庭に迷い込んで介抱されたとも言われいます。

 驚いたペトレさんの家族は、ラズベリーのレモネードや食べ物を与え、金栗四三さんを親切に介抱しました。
 言葉が通じないので、英語ができる近所の人を呼んできました。

 金栗四三さんは「私は東京の大学生ですと」

 金栗四三さんは朦朧ととするなかそう名乗ったそうです。

 ちなみに金栗四三さんのあと、他の選手もペトレさんの庭に走れなくなった選手たちが倒れこみ、まるで野戦病院のような騒がしさでした。
 ペトレ家はこのときの御礼として、オリンピック委員会よりメダルを受け取ることになります。

 ペトレ家に介抱されていた金栗四三さんは、探しに来た日本人に起こされて意識を取り戻し、2人に支えられながら、宿へと戻りました。

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 このマラソンレースは出場者68人のうち半分の34人が脱落し、うち1人【フランシスコ・ラザロ(ポルトガル)】は死亡するというレースであり、金栗四三さんが脱落するほど過酷でした。

 しかし、リタイアした金栗四三さんは、大会の競技本部に何も申告しなかったので、「棄権」ではなく「行方不明」という扱いになり、スウェーデンで「消えた日本人」と報道されて話題になり亡くなって亡霊になったとか、お茶とお菓子をごちそうになっていたとか、二人の美女に導かれて消えてしまったとか様々な都市伝説が生まれたました。

 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。

 


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