金栗四三(日本マラソンの父)35
こんばんはGnaです。
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、金栗さんのの育てた選手のお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
1967(昭和42)年の春に、スウェーデンのオリンピック委員会から金栗四三さんに招待状が届きました。
スウェーデンのオリンピック委員会は、1912(明治45)年にスエーデンで開催した第5回夏季オリンピック(ストックホルム)から55周年を迎えるにあたり、1967(昭和42)年3月に55周年記念行事として国際親善イベントを開催することになったのです。
その時、第5回夏季オリンピックの記録を確認したところ、金栗四三さんの記録が抜けていることが判明したのででした。
このブログでも書いていますが金栗四三さんは、第5回夏季おりんオリンピックの日本代表としてマラソンに出場しましたが、26.7キロ地点で意識を失って棄権したたのだが、地元の農家ペトレ家で介抱され、その後、探しに来た仲間に連れられて宿に引きあげてしまい、その後日本に帰国したため協議本部には何も届け出ていなかったのでした。
このため、金栗四三さんは「棄権」として処理されておらず、スウェーデンのオリンピック委員会は、金栗四三さんに第5回夏季オリンピックのマラソンを完走して欲しいと要請したのでした。
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今日のお話はここまでにしたいと思います。続きはまたお話ししますのでこれからも読んでいただけるとうれしいです。Gnaでした。