金栗四三(日本マラソンの父)30
今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
前回のお話では、戦後の金栗さんお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと
1947(昭和22)年12月5日には熊本県で「第1回・金栗賞朝日マラソン」が開催されました。
その歴史は第2回(1948年)~第12回(1958年)までは、開催地を高松市、静岡市、広島市、福岡市、宇部市、名古屋市、鎌倉市、宇都宮市と毎年変えて継続し、鎌倉で行われた第8回大会は日本初の外国選手を招待したマラソンでした。
第9回大会(1955年)から『朝日国際マラソン』と名称を変え、第13回大会(1959年)以降開催地が福岡市になりました。
その後金栗四三さんは教育委員長の選挙を勝ち抜き、1948(昭和23)年11月には初代・熊本県教育委員長に就任しましたが残念ながら、翌年の選挙で落選してしまったのです。
1949(昭和24)年西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催に尽力します。1959(昭和35)年には熊本県で行われた第15回国民体育大会の最終聖火ランナーとして走ったのです。
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今日のお話はここまでにしたいと思います。続きはまたお話ししますのでこれからも読んでいただけるとうれしいです。Gnaでした。