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金栗四三(日本マラソンの父)21

こんばんはGnaです。
 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。
 前回のお話では、関東女子体育連盟のもとを作りました、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 以前お話ししました第1回・箱根駅伝(四大校駅伝競走 1920年2月14日)は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選として開催されましたが、本戦の「アメリカ大陸横断駅伝」は、当時の報知新聞の理解を得られず、立ち消えとなっなってしまいました。

 その後箱根駅伝は参加校を増やしながら第2回、第3回と継続して開催していきましたが、本戦の「アメリカ大陸横断駅伝」が実現することはありませんでした。

 そして東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)で働き始めた金栗四三さんは、早稲田大学出身の生田喜代治さんと相談し、アメリカ大陸を横断するマラソン計画を考えました。

金栗四三: 消えたオリンピック走者

金栗四三: 消えたオリンピック走者

 

 アメリカ大陸を横断するには毎日50キロを走ってもどう考えても3か月はかかるため、金栗四三さんは仕事や費用のことを考え、残念ながら断念してしまいました。

 しかし、生田喜代治さんは、このアメリカ大陸横断マラソンの夢を諦めきれず、箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社明治大学の出口林次郎さんと訪ねて再び計画への協力を願いましたが、実現は難しいという答えしか得られません。

 二人はあきらめず毎日新聞社の協賛を得て調査のため1922年にアメリカに渡りましたが結局、様々な理由で「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫してしまいました。

 その後、出口林次郎さんはコーネル大学アメリカ・ニューヨーク)からベルリン体育大学(ドイツ・ベルリン)で学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。

 生田喜代治さんはロサンゼルスで柔道を教える一方で、レスリングや相撲でも活躍したが、1927(昭和2)年メキシコのカンセンシコで事業をめぐる事件に巻き込まれて不慮の死を遂げてしまいました

 

詳細は不明ながら、アメリカ大陸に渡った生田喜代治は、ロサンゼルスで柔道を教える一方で、レスリングや相撲でも活躍したが、昭和2年(1927年)にメキシコのカンセンシコで事件に巻込まれて死去した。

 アメリカ大陸横断マラソンを諦めてしまった金栗四三さんは、1922(大正11)8月3日~24日の20日間で、樺太~東京1300キロを走破したのでした当時32歳です。

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 今日のお話は、ここまでにしたいと思います。また続きは、書きますので今後も購読よろしくお願いします。Gnaでした。