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金栗四三(日本マラソンの父)2

こんばんはGnaです。

 今日は、先日もお話ししました金栗四三さんの続きのお話をしたいと思います。

 前回のお話では、小学校までのお話でした、その後の金栗四三さんはどうなったかというと

 小学校を卒業した四三さんは熊本県玉名郡富村(現 熊本県玉名郡和水町)では初となる旧制玉名中学校(現 熊本県立玉名高等学校・附属中学校)への進学者となりました。

 明治38年(1905年)3月4日に父・金栗信彦さんが逝去しましたが、一番上のお兄さん・金栗実次さんが学費と寮費を出してくれたので進学する事ができました。

 旧制玉名中学校(現 熊本県立玉名高等学校・附属中学校)は金栗家から約20キロ離れているので、金栗四三さんは寄宿舎に入り、寄宿舎から旧制玉名中学校に通いましたが、週末には20キロを走って実家に戻り、翌日には20キロを走って寄宿舎に戻る生活を送っていました。

 金栗四三さんは、真面目な努力家で勉強してクラスでトップの成績となり、2年生の時には学費免除の特待生に選ばれたそうです。

 しかし、意外にもスポーツ万能ではなく、剣道などは苦手といわれています。

 よく、脚がすごく速いのに球技が苦手という方は聞きますよね、金栗四三さんもそんなタイプなのかもしれません。

 また中学時代は、食べ物の好き嫌いについて叱られたことがきっかけで、慣れない食べ物や嫌いな食事も我慢するよう心がけるようになりその後の海外遠征でレースに参加するとき役立つこととなったそうです。

 旧制玉名中学校の卒業後は、金栗四三さんは上級学校への進学を希望しましたが、お兄さんの金栗実次さんへの学費等の負担に悩みお兄さんに相談すると、次は「授業料の要らない学校」という条件で進学を許可してくれたそうです。

 当時は、日清戦争(1894~95年)や日露戦争(1904~05年)で日本が勝利し金栗四三さんも対馬沖で日本海軍がロシア軍バルチック艦隊を撃破する砲音を聞いて海軍兵学校を目指しましたが、角膜炎原因で身体検査に引っかかって不合格になってしまいました。

 しかし、金栗四三さんはあきらめず目を向けたのは、中国大陸でした。

 当時の若者にとって、中国大陸で活躍することを夢見ることは特別変わったことではなかったのです。

 そして上海の東亜同文書院大学を受験することにしたのですが金栗四三さんは、東亜同文書院大学の受験の腕試しとして、難関の東京高等師範学校(現 筑波大学)を受験しました。

 金栗四三さんは腕試しなので、ほとんど勉強せずに東京高等師範学校(現 筑波大学)を受験したのだが、何と合格してしまったのです。そこでお兄さんの金栗実次さんに諭され『せっかくだから師範学校で立派な教師を目指したらどうだ』

 こうした経緯を経て、金栗四三さんは明治43年(1910年)、東京高等師範学校へ入学するのでした。

 今日のお話は、大学までのお話しにします。また続きは、書きますのでこのブログを今後もご覧いただけたらと思います。